ケニアからの手紙 Vol. 19 年末号

2013年12月21日発行

 

 

丸川さんからのメッセージ

 

お久しぶりの便りです。

 

長らくご無沙汰しておりました。2月初めの、富塚への日本での紅茶販売の移管、以来になります。その中に、「永住」などという言葉を使いましたので、皆様のなかには「丸川は本当に引退してしまったのか」と思われた方もおられると思いますが、大丈夫元気にやっております。2月の移管後にちょっとホッとしたのと、横に何か書いて欲しそうな顔をした富塚がいなくなったもので、ちょっと油断しておりました。また、今まではメールや文章を書くさいのPC上のタイプは、富塚に代行してもらっていましたので、一人になり、60歳の手習いで、やっと近頃ボツボツ打てるようになったしだいです。

 

先日はマンデラさんが亡くなったり、ケニアも50周年の独立記念日を祝ったりで、いろいろ考えさせられました。私がケニアに最初に降り立ったのは1976年9月ですから、50年の内の37年を目撃したことになります。この間、ケニアは、特にナイロビは大きく変わりました。特に、キバキ大統領下のこの10年には、経済発展したというか、貧富のギャップが大きくなったというか、本当に大変な違いです。物価も、ナイロビでは、日本というか神戸と、あまり変わらないような気がします。

 

また先日、今までの苦労話を、なぞと尋ねられたのですが、苦労なんかしたっけ、と思う反面、思い返してみると、大変な事をやってきたのだなあ、と自分であきれる気もします。後で分かってゾッとしたのですが、知らないうちに、強盗団グループとニアミスを起こしていたこともあったようです。それに、人が簡単に死ぬので。

 

紅茶の仕事にしても、誰の助けも借りずに立ち上げましたので、と書いてきて、随分失礼な書き方だと気がつきました。ケニアでは、ケニアの人達には随分助けてもらいましたし、日本のマーケットに関しては、皆様のお世話になりっぱなしでした。でも、よくやったなあ、と自分で感心することがしばしばの近頃です。やはり年をとって、新しい出来事に対処する精神力が弱くなってきていますので、逆に過去の自分を思い出して感心しているのかもしれません。今だったら、出来ないなあ!

 

最後に、この37年間で感じたケニア人と日本人との大きな違いのひとつを書いてみたいとおもいます。

 

それは、人と人との関係だと思います。ケニアの人は、私の印象、計算では、一人の成人が、少なくとも5000人から6000人の人を個人的に知っています。

えっ、と思われるかもしれませんが、まず、自分の大家族と親戚。その近所の人達、その親戚と結婚している人のもとの家族、その家族の近所の人達、及び友人たち。次に、自分の近所の人達、その近所の人達を訪ねてくる、親戚、友人達。仕事仲間、そしてその家族、親戚、友人達。仕事仲間の家の近所の人達。学校時代の友人達。その家族、親戚、友人達、近所の人達。とまあこんな風に蜘蛛の巣状に広がっていくように増えていきます。

 

例えば、私が家内とナイロビのメーンストリートを500m~600m歩いたとすると、途中で3人から5人の知り合いに出くわし、立ち話しになります。お喋り好きのケニア人ですから、その立ち話しが長くなってなかなか前に進めません。知らない同士が話し合っても、ケニア人はお喋り好きですから、知らない同志でもすぐ喋りだしますし、その話しの中で、100%共通の友人を見つけ出してしまいます。

比べて、日本人は何人ぐらい知っていると思いますか?また、あなたは何人ぐらいご存知ですか?

 

先日、モンバサのビーチホテルへ家族を連れて行ったのですが、初日から家内が部屋のクリーニングをしてくれるハウスキーパーと親しくなりました。そして、彼女も私の家内と同じニャフルル近郊で育ったことが分かりました。

彼女が生まれ育った土地は、奨学金制度や、教科書寄付で私にも馴染みが深い土地でしたので、何という小学校の出なのか、また年頃が合っていましたので、90年代末に教科書とボールを寄付した日本人のことを知らないか、と家内に聞かせたところ、なんと、私が良く知っている小学校の出身で、その上彼女自身、優等生だったことから、教科書寄付のさいに直接私から教科書を受け取った一人だと判明しました。

挨拶に来て、「どこかで見たような人の気はしたのだけれど」と大喜びでした。私もこんなことがあると嬉しいですねえ。写真を撮っておけば良かったのですが。

 

また、12月14日には、もと奨学生が14~5人我が家に集まってくれ、「毎年この時期に集まろう、もっと皆に声を掛けて」と大いに盛り上がりました。そんな話しは、また次回にさせていただくとして、もう少ししばしば手紙を書くようにしたいと思います。書いているうちに、いろいろ思い出してきました。ところで、支援した奨学生は、総計294人だったそうです。

 

ナイロビにて、12月20日、丸川正人

 

Githongoをたずねて

 

この8月、東京事務所で紅茶のお仕事を一緒にしているあきこさんと彼女の子供2人を連れて、ケニアに行ってまいりました。この訪ケニアの際、この茶葉収穫地域で2011年から開始した奨学金プログラムの奨学生を集め、セミナーを開きました。高校1年生~3年生の18名の支援をしており(ケニアの高校は4年制)、2013年12月現在、次の年の学生の応募を受付、選考しています。

 

このプログラムは今年で3年目ですが、奨学生たちが一同に集まるのは今回が初めて。病気で欠席した1名を除く、17名が参加しました。生産者代表のチェアマン・ムレイディ氏、ギドンゴ製茶工場長ムワンギ氏ほか、工場関係者、翌日に訪問予定だったムザンゲネ小学校の校長先生など多数参加しました。

 

このセミナーの開会のあいさつで、チェアマンのムレイディ氏は「これからもギドンゴでは農薬を使わずに質の良い茶葉を作り続け、日本に提供します。だから奨学生のみんなは自信を持って『自分はギドンゴ出身、日本の皆さんのおかげで学校に行くことができました』と言える、立派な人間になろう」と、話してくれました。

 

そのあと、丸川代表が奨学生に向けて教育の大切さについて話しました。

(以下、抜粋)

「君たちは奨学生選考で多数の候補者の中から選ばれました。

 貧しくても才能がある君達には、将来、成功して他の人々を守れる人間になってほしいと思います。

成功するためには、まずしっかり勉強し、大学に入りましょう。そして良い仕事に就いてください。20年後に自分の子供に『お金がないから学校へ行かせられない』と言うことがないようにしてほしいのです。

 以前、私の妻の故郷ニャフルルでも奨学生を援助したことがあります。

 その生徒はいま30歳代で、みんな立派な社会人として働いています。お金がなくても大学生向けローンを借りたり、夜学に通う方法もあります。

昔は、このようなセミナーを何度か行い、交流を深めていました。

 この機会を最大限に生かし、お互いに仲良くなってください。

 『頭のいい人はだまっていない』という言葉があります。次回のセミナーではもっといろいろと質問してください!

 今がスタート地点、いえ、いつでもスタート地点です」。(以上)

 

奨学生のみんなは一生懸命にメモを取りながら、話を聞いていました。

セミナーの後はギドンゴ製茶工場のできたて紅茶を飲みながら、学生同士の交流を深めました。同じ境遇の学生同士が仲良くなって助け合うのも、このプログラムの目的の一つです。

 

家庭の事情で進学をあきらめていたこどもたちが、この奨学金のプログラムで進学してどのように成長していくか、交友会でしっかりと見守っていき、みなさまに報告していきたいと思います。交友会のホームページに写真を載せましたので、「ケニア訪問記」をクリックしてみてください(紙面の都合で写真がなくてごめんなさい)。

東京にて 富塚比咲子

 

東京事務所・編集室より

 

この1年間、みなさまに「ケニア山の紅茶」を通して支えていただき、心より感謝申し上げます。年末年始ですが、12月28日から1月5日まで、お休みさせていただきます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。Wish you happy holidays!(ひさこ)

 

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